今シリーズ「国境と建築」の最終回は二川幸夫氏。感想を簡潔に言えば、「コロッセオに猛獣を一匹放っておいて、グラディエーター三人は観客席にいる」といった感じでした。残念至極。もちろん「猛獣」は二川さんのことで「グラディエーター三人」とはコーディネーターのお三方を指して例えたもの。
ってことで、講演の私のノートを記載しておきます。
「国境と建築」なんてテーマ日本くらい
評価の在り方について
現状の日本、ピンチ
20年前なら磯崎・安藤
都島工業高校
「日本の民家」(1957)6年+6年で
日本人の知らない日本(の建築)、職人芸の建築(→建築家?)
日本の古典
敵わない相手、菊竹
田辺タイ?琉球の研究家
→クサカベ 日本の発見
資料の集め過ぎ⇔一般教養
早稲田での講義、建築を好きなヒトが少ない
イイ民家のある所は違っている。味・景色(そば屋・松林)
それをもたらすコミュニティー
「イイ建築」の理解・判断が前提で設計は始まる
世阿弥の本
建築家が作る「一品物」としての「美しい建築」
建築が楽しくて仕方がない
その素地が無くなり過ぎている
個人の素地⇔社会的素地
ノートはここで終わり。開始から2/3ほどで書くのを諦めました。猿回しがいないまま、迷走する二川さんのお話し。突っ込みたいとこ、掘り下げて欲しいところなどなど満載でした。質疑応答で二番目の質問者になって、充分にお答えをいただいたと判断して切り上げる意味でマイクを返しても壇上の誰も仕切らない。横にいた私の学生に見せるために書いた「お三人さん、どう締めるのかね?」が最後の記述でした。今関西にある建築の勉強会などの機会の少なさを考えるに、利用価値のある資材(二川さん)を「死に体」にしてしまった主催者の功罪は深い。次のシリーズへのつなぎも不完全なママ終了。消化不良感満載でした。先の学生は今シリーズ2/3ほど出席したそうですが(私は3回)、果たして如何程に参加者の役に立ったのかは疑問の余地アリです。曲がりなりにもお金を取っているんだから、そこら辺はしっかりして欲しいところ。せっかく来て頂いた二川さんにも申し訳がない(もちろん二川肯定論を打つつもりはありませんが)。
次のシリーズは「建築の跳躍力(仮)」だそうです。
悲しいけど、期待しなきゃ仕様がない。