とある理由で「西洋人の日本人観」について考えています。と、いうよりも「日本人観」って言葉に引っかかっています。外国人は果たして「××人観」ってものを気にするものなのか。実際イギリスに住んでいた者としては「民族的対立」以外に感じることはありませんでした。ラテン対アングロ・サクソンのイギリス対フランスの代理戦争のように。
ただ、日本の特殊性はあります。形式的な上流階級の下にある武士の階級が本来的な支配者であり、実質的な(経済的な)支配階級である商人が制度上の最下級であったこと。西洋にはないねじれの構図がそこにはありました。
日本の開国期、海外では事情が違っていたようです。南米では宗教を絡めた「征服」の構図が進行しました。北米では「侵略」でした。被害を免れた「日本」はこれからどこに行くのか。昨今の時事ネタを見るにつけ、気になります。
感じる時もあるかな。
東洋人を区別していなかった人が、日本人と韓国人、中国人の国民性の違いを意識し始める時。見た目では分からないというけど、何かの出来事を切っ掛けに「違うねぇ」なんて言い出すことってない?
個人的な体験が効くみたい。
中国も清朝までは実に西洋的だった、と捉えています。特にその階級の性格においてです。士農工商のねじれはありませんでした。
上で言ってるのはこの国の民族意識が希薄なのに対して、それがばれてやしないかと気にする様が気に入らないってことです。あ、そう言やぁあの国も一応無宗教なんだよね。
昨日に読み終えたばかりの「生き残った帝国ビザンティン(井上浩一著/講談社現代新書)」
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もあって「国」と「民族」の関連性には鬼気迫るものを感じております。どっか逃げよっか。
民族意識が薄いから、それを感じるから、何とかそれを否定するような話をどこかに見付けたい、なんて衝動なのでは? つまりは、アイデンティティの欲求ってことかな?
国とか民族とか階級とか、なんか、色んな問題が絡まってて、一旦は切り分けないと話し辛いなぁ。
ま、確かに「西洋人の日本人観」では広すぎる。
それに、どんな先進国でも田舎に行ったら、
そんな「観」どーでもいーことです。
知ると悩んで路頭に迷う。建築史に似たり、か。